日本経済を長く特徴づけてきたのは、急激な失業増を避けつつ、賃金を抑え、価格も動かさないという調整の仕方です。物価が上がりにくい一方で、実質賃金も伸びにくい——「安定」に見えた仕組みが、内需と生産性の停滞を長引かせた、という見方が改めて広がっています。

立教大学経済学部の首藤若菜教授は著書『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』(講談社)などで、雇用維持を優先する労使慣行と、価格転嫁の弱さが悪循環をつくってきたと指摘しています。日銀の研究も、企業が価格マークアップの縮小を、賃金抑制で補ってきた構図を示しています。本稿は、その骨格をニュースとして整理します。

何が起きてきたのか

経済学の教科書では、人手不足になれば賃金が上がり、企業は高い賃金を払って人を確保する、と説明されます。ところが日本では、2010年代半ば以降も人手不足が続く一方で、賃金上昇が必ずしも連動しませんでした。

首藤教授の整理では、賃金が上がらないと家計は消費を抑え、企業は「高い価格をつけたら顧客が離れる」と考えて値上げをためらう。価格が上がらなければ賃金も上がらず、投資も進みにくい。投資が止まれば生産性も上がらず、経済全体が停滞する——という連鎖です。

価格が上がらない→投資が進まない→生産性も上がらない→内需も拡大しない→経済が停滞する」。過去およそ30年を象徴する悪循環だと、首藤教授は述べています。

コスト負担はどこへ行ったのか

交易条件の悪化(輸入コストの上昇など)が続く局面で、経済はどこかで負担を引き受けなければなりません。首藤教授の議論では、日本の調整プロセスは次のように整理されます。

(1)利益は大きく圧縮されなかった
(2)価格は動かなかった
(3)負担は賃金に向かった

つまり、値上げや利益の削り込みより、賃金が調整弁になった、という読みです。値上げすると取引を失う恐れがある業界では、価格交渉が進まず、低価格・低賃金・長時間労働でコストを吸収する現場も少なくありません。運送業などで運賃改定が進みにくい構造は、その典型例として語られてきました。

日銀のワーキングペーパー(「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」)も、価格マークアップが縮小するなかで、企業が賃金マークダウン(賃金抑制)を強めて収益を確保してきた、と分析しています。特に非製造業の小企業で顕著で、米国のように価格マークアップが拡大してきた構図とは対照的だ、としています。

なぜ賃金が止められたのか

背景の一つが、雇用を守るための労使慣行です。厳しい環境下では、賃金を抑えてでも雇用の安定を優先する選択が取られやすく、失業の急増を避ける効果はありました。一方で、それが賃金抑制の長期化にもつながりました。

象徴的な出来事として語られるのが、2002年のいわゆる「トヨタショック」です。当時、トヨタ自動車が過去最高水準の収益を上げていたにもかかわらず、トヨタ労組がベースアップなしで妥結した、と報じられました。春闘の「基準」になりやすい大企業労組の妥結が、他業界にも波及する仕組みのなかで、賃上げ抑制の空気を強めた、という評価があります。

もちろん、賃金停滞の原因は一点だけではありません。非正規雇用の拡大、短時間労働者の増加、労働時間の変化、交易条件、競争環境——複数の要因が重なります。ただ、「価格を動かさない/賃金で吸収する」という慣行が、長期停滞の核心にあった、という指摘は、いまの賃上げ議論を読むうえでも有用です。

いま何が変わりつつあるのか

2022年以降の物価高で、日本でも名目賃金は上がりやすくなりました。春闘では高水準の妥結が続き、最低賃金の目安も過去最高水準に達しています。日銀は物価目標2%と整合的な賃上げを「定着」させることが重要だ、との立場を繰り返してきました。

ただし名目の伸びと、物価を差し引いた実質賃金は別問題です。家計の体感では「給料は上がったが生活は楽にならない」という声が残りやすく、食料品の消費税減税など家計対策が政治争点になる背景にもなっています。

転換の鍵は、賃金だけではありません。適正な価格転嫁が進まなければ、中小企業の賃上げ余地は限られます。価格転嫁→収益→賃上げ→消費、という循環を社会の当たり前にするか——「賃金抑制・価格固定」の経済から抜け出せるかが、いま問われています。

次に見るポイント

(1)春闘のベアが中小・非正規まで広がるか
(2)価格転嫁の実態(運送・飲食・小売など)
(3)実質賃金の推移と家計消費
(4)最低賃金と生産性向上・省力化投資の両輪

本稿は解説であり、個別銘柄や投資の助言ではありません。論考・研究の要点を、ニュース読者向けに再構成したものです。

まとめ

日本は長く、賃金を抑制し価格を動かさないことで経済を回してきました。雇用は守られやすくなった一方、内需と生産性の停滞を長引かせた、という見方です。物価高と人手不足のいま、価格転嫁と賃上げの定着が「失われた30年」の出口になるかが焦点です。News.comは、賃金・物価・家計の動きをセットで続報します。